毒親

89: 名無しの心子知らず 2016/03/11(金)00:42:38 ID:jqp
『アレルギーは甘え。食べさせて矯正すれば治る』が口癖の超劇猛毒母から義実家に逃げて絶縁した。
前述のとおり私の母は『アレルギーは甘え』教にどっぷりがっつりハマった最凶レベルのキチ。
私と旦那の子供(当時2歳)が桃アレルギー(食べるとノドが大きく腫れた)と知って大発狂し、何度も家に凸しては「食べれば治る!しっかり矯正しましょう!」と言い出した。
根気強く何度言っても「何度も食べれば治る!」のトンデモ理論を振り回して話にならないので、最初にアレルギー発症した時にお世話になった先生に相談した。
「連れてきてくれればアレルギーがどれだけ危険か説明しますよ」って快く説得を引き受けてくれた。

…けど。

117: 名無しさん@おーぷん 2016/01/18(月)21:38:49 ID:irv
吐き出したくて来ました。
いい年をしたおばさんの愚痴や後悔混じりの話しになりますがお付き合いください。
弟が自タヒした話なので不快な方は読み飛ばしてください。

私はいわゆる毒親の元に生まれた。
両親は典型的な田舎の長男教で、長男以外はいる価値がない。
むしろ、家計のためにはいないほうがいいという考えの持ち主で、男ならまだしも女は猫といっしょでガキを作るしか能がないと常々言い続けていた。
そんな親は三つ下の弟を異様に溺愛したが私のことは徹底的にイビリ続けていた。

召使いのような扱いを受け、毎朝5時に起きて廊下の雑巾がけをしなければ箒や棒のようなもので打たれた。
食事すらロクに与えてもらえず、両親は自分たちが食べ残した物を私に投げてよこした。空腹に耐えきれず、投げつけられて落ちた物を拾って食べる私を「卑しい」と罵り、蹴られることも珍しくはなかった。

今でこそ開けてきてコンビニや大型スーパーもできたし電車が開通したことで拓けたけれど、私が子供の頃は何もなかった。もしあったら私は万引きしてでも食べたと思う。
子供だった私は飢えに耐えかねて近所の畑を荒し、土がついたままの大根や葉っぱを齧っては見つかって怒られた。
若い人にはピンとこないだろうけど、地元は男優先の男尊女卑が今も根付いている地域で、女だっていうだけで無意味に貶める風潮が少なからずあった。
全員が全員そうだったわけじゃないんだろうけど、閉鎖的な環境で暮らしていたその頃の私は、周囲に助けを求めてもムダだと学んでいた。

毒親に溺愛された子というと、毒に染まったどうしようもない人種だと思われがちだが弟は違った。
両親に食事すら与えてもらえない姉に、弟はよく自分のお菓子を分けてくれた。
見ているところで分けると「弟のものを盗り上げた」と余計にひどい暴力に晒されるので、親が寝静まったころにこっそりと食べずにとっておいたお菓子を持ってきてくれた。
幼いなりに自分の家がおかしいとわかっていたのか、ニヤニヤと笑いながら私をいたぶる両親に何度もやめるように言ってくれた。

でもその当時の私には、弟を可愛いとは思えなかった。
両親の愛情を唯一独占している弟が妬ましかった。はっきり言えば僻んでいた。
私は着古してボロボロの服を着て、暖房も扇風機もない三畳足らずの物置で寝起きしていたが、いつもきれいな服を着ていた弟にはエアコンのついた部屋が与えられていた。
男に生まれただけで何不自由なく恵まれた待遇にいる弟を、妬まずにいられるほど大人ではなかった。
弟のほうは「姉ちゃん、姉ちゃん」と言って懐いてきたがそれすら煩わしかった。
今にして思えば、弟は随分さみしい思いをしたんだと思う。
両親は弟を溺愛していたが押し付け的なところが多々あった。
弟が姉に懐く姿を見て、「弟に色目を使うようなアバズレ」と姉に暴力と暴言を浴びせる親だ。まともではない。
そんな親の愛情を受けたところで弟は辛いだけだったんじゃないかと。

226: ◆8B8X/67LrWes 2014/06/20(金)22:15:08 ID:3rxPDZKWG
自分の人生が結構な修羅場。
長いです。

幼児期の私は所謂放置子だった。
三歳で近所の公園に一人で遊びに行ってた記憶がある。
小学生になり、一時友達は出来たが段々と虐められるようになる。
小さい頃には虐められる原因が解らなかった。
大人になって幼少期の自分を振り返ると、距離感が掴めてないKY児童だったと判明した。
虐めに暴力は無かったが地味に精神を削られ続け、立派なコミュ障に成り下がる。
そんなもんで仕事もルーティンワークな仕事にしか着けず、中卒で就職し底辺な暮らしをしていた。
成人した翌月、母親から保険証持って着いてこいと凄まれる。
借金の申し込みと解った私は「毎月給料の半額家に入れてるのに何でそんなお金ないん?いくら親子でもお金の事に関しては譲れない。」と頑なに断る。
結果「親が困ってる時に助けない子供は要らん」と家から追い出される。
半月は仕事を通じて巡り会った数少ない友達のお宅にお世話になりながら住み込みの仕事を探す。
地域を選ばず何処でも飛べる派遣社員になった。
居住が西日本から東日本に移った。
居候させてくれた友達には暫く働いてお金を貯めたのちに改めてお礼と言う名目で回ってないお寿司屋さんでご馳走をした。

派遣になってからは無我夢中に働いた。
コミュ障があるので自分を表現するのは下手だったが、幸いな事に仕事仲間には恵まれていた。
そこで知り合った同僚から、趣味のゲームに誘われた。
所謂オンラインゲームと言う奴。
あまりゲームに触れた事がなかった私でも、同僚のリードがあり溶け込んでいけた。
自分を反映させたそのキャラクターには支援系の職業をやらせてスキル回しやらを必タヒに覚えた。
ゲームの世界で、誰かから必要とされる気持ちを貰ってPC前で一人で泣く事もあった。
そんな世界で知り合った人達と飲み会をする機会があった。
自分が参加して良いのか解らなかったから黙っていたけど「貴女も参加するよね?ってかおいでよ!」と言われて嬉しくて参加表明した。
そこで色んな年代の人達とワイワイ楽しく飲みながら、少しずつ自分らしさを見つけて行った。

ある日、その世界の一人の男性から告白をされた。
飲み会であった時から気になっていたと言われた。
告白されるのも始めてで返事に困っていると「急がなくていいよ。」と言われ、暫く返事を保留にしていた。

少しずつ距離を狭めていって、正式にお付き合い開始。

697: 名無しさん@おーぷん 2014/10/20(月)02:26:06 ID:jEtjPZM0v
例のニュースを見て思う所があったので。
だらだら書きます、毒親案件です。母親の首を力いっぱい絞めた話です。

両親は物心ついた頃から不仲で、父が「デブ、ブタ」と罵って母を泣かせてたのをよく覚えてます。
どうも妊娠を機に劇太りした母に愛想が尽きたらしく。
母も女ですから、見栄えを罵られるのは辛かったのでしょう。よく泣いてました。

当時は気付いてなかったのですが、そのストレスのはけ口は私と私の兄に向けられていました。
遊ぼうと外に出ると血相を変えて母が現れ、人目がある場所で尻を丸出しで叩かれたり。
他の子が食べるお菓子や、玩具付きのラムネ菓子が欲しくてじっと見てると頬をぶたれたり。
しかし最後は決まって泣きながら私を抱きしめ、「あんたのことを思ってやっている」と言われました。
それをそのままに信じました。

兄は母に進められ、剣道を嗜んでいました。
腕もよかったので他のママ友から褒められたり、同い年の子らの中でも中心的な存在でした。
そのせいか、マイペースで活動的な「トラブルメーカー」の私を遠ざけようとしてました。
父は仕事とパチンコで滅多に家におらず、母は父に罵られ私を叩いて家出して家におらず。
兄もまた両親と私から逃げたかったのか友人と外でよく遊び(兄は窘められませんでした)家におらず。

部屋から出ると母にぶたれると学んでいたので、保育園がない時はひとり薄暗い部屋でずっとテレビを見るのが日常でした。
これが小学校転入前位。

4: 名無しの心子知らず 2015/05/15(金)02:56:35 ID:GPI
私が子供産めなくなったまでの最大の修羅場

昔から私の母は私のことを国語の教科書に出てくる品行方正な委員長みたいな扱いをしてた
髪の毛は伸ばしておさげ、服装はブラウスにスカートに白い靴下、コートも無地の落ち着いたもの
筆記用具は実用性のあるものでキャラクターものはなし
皆がバトル鉛筆にはまっている中私はトンボ鉛筆
女の子たちはカラーペンのコレクションをやりだしたけど、私が与えられたのは蛍光マーカーと赤ボールペン

母親は学校からの書類にきちんと目をとおすし、保護者記入欄はきっちり書く人だったけど
参観日や運動会や発表会には来なかったし、お弁当も作ってもらったことがなかったからコンビニのお弁当を持たされていた
夏休みなどの長期休暇は家でお留守番を命じられたし、その際に時間を潰すために与えられたのは学習ドリルと勉強教材のビデオだった

私は知らないところでストレスが溜まっていって、生理が中1の春頃に始まったものの、中2の春には気づけば止まっていた
三ヶ月くらいこなくておかしいと気づいた
誰にも相談できず、きっと母なら助けになってくれると、正直に「お母さん、生理がきてないの」と伝えた
母はこれまで見たことのないような般若のような顔になり、「いつ!いつからきてないの!」と怒鳴りつけた
「三ヶ月くらい・・・」
「売女の子が!どこで孕んできた!」
私は頭が真っ白になった
「言え!相手は誰!吐け!吐きな!はやく!」
頬を何度か叩かれて、私は怖くなって全力で否定した
「違う!なにもしてない!なにもしてない!」
「嘘つけ!」
「嘘じゃない!違う!なにもしてない!」
必死に否定していると、母に本気でガツンと頭を殴られた
クラクラする頭で母に無理矢理引っ張られ、靴も履かずに制服姿で産婦人科に連れて行かれた
私が必死に違う!違う!なにもしてない!と訴えるのを他所に、母は私が妊娠しているかもしれないと受付に告げて診察させられた
先生はおじさんで、他に看護師が2人いて、母まで見ていて、あんな羞恥を受けたのは初めてだった
診察も激痛だった
指を入れられ、機械を入れられ、股から血が流れていた
結局生理不順と診断されたが、私はそのままストレスで生理がこないまま、高校生で閉経した
女性ホルモンが出ないせいで、高校生にして更年期のような症状に悩まされた
ホルモン剤は出たものの、女らしく育つ暇もなかった身体はよく男と間違えられる

父は今になって、母だと思ってた人は母ではないことを伝えてきた
父は浮気をして愛人との子をなした
それが私
愛人は大卒のエリートの女性で父の出張先にいた人らしい
私の母は高卒で、だから私にエリートを求めたのかもしれない
母に売女の子と呼ばれた時からなんとく察していた
でももっと早く知りたかったよ
無条件に愛した母がそんな私を憎くて仕方なかったんだとしたら、母には謝っても謝っても足りない
もっとはやく母の愛情を受けてはいけないんだと気づいていれば、母の負担になることもなかったのに

266: 名無しさん@おーぷん 2016/12/15(木)17:07:46 ID:tmm
中学の時父の浮気で子供の私まで母にイラネされた
頭の湧いてた父は離婚してすぐ愛人を家に呼び寄せ父と愛人と私の三人暮らし開始
露骨な邪魔者扱いはされないまでも、明らかに余分な物扱いで
置いて行った母親を恨みそうになるたびに母も父の浮気で傷ついたんだろうなって、
自分に言い聞かせていた
会いに行っても顔を見ると父を思い出して辛い、一緒には暮らせないって言われると
どうしようもなかったし

なのに、一年ぐらいたった時に母がやってきて凄い剣幕で怒鳴りつけられた
「どうしてあの女なんかと仲良くしてるんだ!私を裏切ったのか!」

円満にやらなければ他に行くところがないという一心で、
波風立てなかったのが母にはお気に召さなかったらしい
母の計画では、私が感情のままに暴れ父と愛人にダメージを与え
2人が破局した辺りで私を回収するつもりだったってさ

ああ、私って捨てられたんじゃなくて復讐の鉄砲玉だったんだなって思った瞬間、
なんか今まで必死に守らなきゃ握ってなきゃ我慢しなきゃって思ったものが全部溶けちゃった
割とさ、親の金で今まで通り生活してるだけって思うかもしれないけど
事の元凶どもに媚びるしかない状況って学生の自分にはすごいストレスだったのね

なんか涙がぼろぼろ止まらなくて、上記の事を嗚咽交じりに訴えたらさすがに母も良心残ってたのか
場所がファミレスだったから人目気にしたのか、おろおろし出しだしてさ
「もういいから一緒に暮らそう。引き取りに来た」っていうんですよ

366: 名無しさん@おーぷん 2015/02/22(日)03:37:40 ID:5mb
ちょっと長いけど、大丈夫かな。
この間までの私と友人の修羅場。
初めての書き込みなので不備があればすみません。

私と友人(どちらも女)は大学で知り合い、
20年ほどのつきあい。
時々二人で旅行に行ったりしてたんだが
旅行中異様に親の事を心配する。
真面目で頭も良かったし、親思いの良い子なんだなあと思っていた。

227: 名無しさん@おーぷん 2015/02/12(木)23:12:10 ID:yW4
書き捨てる。

姉妹2人、親には虐待されて育った。何を決めるにも
「自分で判断すると失敗する、母親の言う通りにしないと失敗する」
という呪いをかけられた。
従わないとき、失敗をしたときは暴力制裁だった。
竹定規、椅子、蝿叩き等を掴み、それが壊れるまで私を叩いた。
避けたり悲鳴をあげたりすると余計ひどくなるので
じっとして声を殺して時間が過ぎるのを待った。
朝でも夜でも無関係で、母親の機嫌が悪い時は
眠っていても叩き起こされて理由をつけて殴られた。
父親はずっと空気だった。

私は次第に母親の傾向と対策を学び
出来る限り母親の気に入る服装、髪型、態度、表情、言動、成績を
キープするようにした。
「洗脳完了」「ごますり」と言えばその通りなんだけれど
何より私は殴られない生活が欲しかった。夜に安心して眠りたかった。
すると少しずつ母親の私への暴力が減り、会話が通じるようになった。
やっと家で安心して過ごせる、と嬉しかった。

しかし2歳離れた姉は違った。
母親が筋の通らない理由で怒鳴り散らしている時は必ず反論した。
そして余計に母親を怒らせ、もっとひどく殴られていた。
妹と違って自分の思い通りにならない姉に、母は常に苛ついていた。
姉は折檻されながら、泣きながらでも
自分が正しいと思うことを主張していた。

正直、当時の私はそんな姉にイライラすることもあった。
私にとって重要なのは「母親が怒るか怒らないか」だった。
なぜ姉がそんなに些細なことにこだわるのか、
勝ち目のない争いを続けようとするのか理解できなかった。
母の機嫌が悪くなると私まで殴られるから
お願いだから母の機嫌を損ねないでくれ、と姉に訴えたこともあったが
姉は変わらず母を怒らせる態度を取り続けた。

それでも私なりに母の機嫌を損ねない表現で姉のフォローをしたり
姉を許してくれるよう母に頼んだりもした。
お互いの失敗が母にばれない様に隠し合ったり、
母が不在の時は姉と愚痴を言い合ったりして、
私にとっては姉は戦友みたいな感覚だった。

決して姉を殴る母に加勢などしたことはなかった。
母を刺激しないように母の側に立ちながらも
母の興味を別のもので引いたり注意をそらしたりして
なるべく姉を守れるように立ち回っていた。
そういうつもりだった。自分の中では。

62: 名無しさん@おーぷん 2015/07/28(火)17:27:28 ID:EGv
夫が絶縁した私の親に私の情報を売ってた
道理で引っ越してもアドレス変えても手紙やメールが届くはずだよ
売ったというか情報リークしてただけだけど
そのせいで不眠や吐き気が止まらなかった
夫はずっとそばについてて慰めてくれたけど
同じく絶縁してたはずの姉がポロっとメールで漏らして分かった
謝ってくれたけど夫が毒親と同じ人種じゃないかと思えて仕方がない
いま別居(夫が前の家に戻ってる)してるけど細切れでこんなメール↓が来る

36: 名無しさん@おーぷん 2017/09/28(木)00:40:13 ID:HRr
学校の先生は性格がおかしい人が多いと言われるが、自分の母を見ていると真実だと思う。

今は退職して何十年も経ったが、昔、母は小学校教師だった。母は私や兄に「教師は女の仕事としては最高の仕事だ」といつも言っていた。
その「最高の仕事をしている自分」にものすごいプライドを持っていた。ある時、その最高話にウンザリした兄が「女性のお医者さんや
弁護士や大学教授もいるよ」と言ったら、母は「それは例外でそんな人はあまり居ない、普通の仕事では最高なんだ」と怒鳴った。
兄が「普通は普通で、最高とは違う物だ」と言った瞬間、兄は母に殴られていた。目が吊り上がって顔が真っ赤な母に「お前もそう思うか?」と
聞かれた私は兄を裏切るわけもいかないけれど、殴られたくないのでどうしてよいか分からず即答できなかった。再度「お前はどう思うんだ!」と
怒鳴られ、パニックになった私は「普通は最高だと思う」と答えてしまい「馬鹿」と言われ、母に殴られそうになった。その瞬間、兄が「今の事を
赤の他人に言って聞かせてもいい?」「最高話を人に言いふらすよ」と言ってくれたので母に殴られずに済んだ。母は「お前たちは世の中の事を
分かっていない」などとブツブツ言いながら部屋を出て行った。家に父親は居たが、全くの空気だった。何を言っても相談しても「母さんの言う
通りにしなさい」「母さんを怒らせたら駄目だよ」と言うだけだった。

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